私はこれまでも、コラムやエッセイで「感染症とアート」について取り上げる機会が度々ありました。アートは私たちの心を幸せに豊かにしてくれる一方で、様々な深淵な問題も投げかけてきます。まさにアートの守備範囲は広く、一見何の関係もなさそうな感染症とも深くかかわっているのです。
感染症が関係するアートは「バイオアート」に分類されます。アムステルダムを拠点に活動するウィリアム・マイヤーズによれは「バイオアートは、生物学を表現メディアとして利用し、作品を通して、生物学自体の意味や自然の変化に目を向けるものだ。
作品はシャーレの中かもしれないし、写真かもしれない。」と言っています。つまり、生物学として表現できて説明がつくものなら、なんでもバイオアートになるようです。一般に、絵画や彫刻では技法があるので自由度は限られていますが、バイオアートでは生物に関連していれば制限はないようなので、「私にもできそう!」と思った方もいらっしゃるかもしれません。
それこそがバイオアートの良いところなのです。アートと聞くと敷居が高いと感じた方も、バイオアートの入り口は広く開かれていることがお分かりいただけたのではないでしょうか。
さて、今回はだれにでもできてしまいそうな感染症のアートをご紹介しましょう。オーストリアのソニヤ・ボイメルによる2009年の「Oversized Petri Dish(大きすぎるペトリ皿)」という作品があります。
オランダのワーヘニンゲン大学の協力のもと、巨大なペトリ皿の培地に自らの体を押し付け44日間培養した後に写真撮影したものです。緑色、灰色、茶色、薄ピンク色の大小のコロニーが一面に広がっています。おそらくコロニーのほとんどが真菌で、一部は細菌と考えられます。
ボイメルは「微生物の存在が可視化されると同時に、その元となった人間との関係は無視できない」ことを表現したのだそうです*1。44日間という培養期間の長さは、抗酸菌のように分裂速度が極端に遅い細菌以外には行うことはありません。先輩から「プレートを放置するな!」と𠮟られるほどの長さです。
皆さんはこの作品をどのように思われましたか?「実際に見ていないのでわからない」という方もいらっしゃるでしょう。しかし、生化学に関わったことのある方々にとって、この作品を想像することは容易なはずです。
たとえば、実験・検査などで細菌やコロニーを培養しているプレートの様子を思い出してみてください。そう、それこそがこの作品の姿にほかならないのです。一方、作者のボイメルをはじめとして細菌や真菌のコロニーを見たことのない人にとっては、人間の皮膚には多くの種類の微生物が存在していて、これを可視化できるということに新たな驚きを覚えたこということなのでしょう。さらに、これらの微生物は様々な色と形で独特のコロニーを形作ることに感動したのかもしれません。
冒頭で、生物学として説明のつく作品はアートになり得ると説明しました。この作品は人間の常在細菌が培地上で増殖する様を、細菌や真菌の培養をしたことのない人に対して、新鮮な驚きとして伝えたのです。これこそがアートなのです。
今回は感染症というよりも微生物とアートをテーマにお送りしました。最後は、大胆にもこの作品のテーマにおける生物学的な間違いも指摘しておきましょう。巨大な固形培地の上にボイメル自身が上半身を押し付けて作製した作品なので、培地上に上半身の跡が見て取れます。その周りにもいっぱいコロニーが生えています。これは明らかに落下細菌や落下真菌です。
残念ながらこれらの微生物は人間とは無関係です。彼女なら「環境中の微生物も人間が作りだしたものだ」と説明してくれそうですね。この辺りはアートですから、細かなことはつっこまないでおきましょう。個人的には、培地の種類と培養温度が気になるところです。その条件により増殖する細菌や真菌が選択されるので、作品では体表や環境中のすべての細菌や真菌が増えているわけではないことも彼女に伝えておきたいところです。
さて、読者の中で、培養の実験をしたり検査室に勤務されている方が、うっかりプレートを長期間放置して叱られそうになった時には、「ソニヤ・ボイメルをリスペクトして微生物アートを作製しています」と言い訳をしてみましょう。もちろん、その結果には責任は持ちませんよ。
*1:バイオアート バイオテクノロジーは未来を救うのか。ウィリアム・マイヤーズ著 BNN出版
ソニヤ・ボイメルの作品については https://sonjabaeumel.at/work/oversized+petri+dish/
2021年9月
水谷哲也
東京農工大学農学部附属 感染症未来疫学研究センター
センター長・教授 獣医師・博士(獣医学)